尾崎豊の『NOTES』
私は尾崎豊より一回りも歳が上で、尾崎豊の歌を歌詞を追って聴いたのは、尾崎豊が亡くなってからです。ずいぶん昔のことですが、毎土曜日、渋谷の気功道場に通っていたとき、渋谷のクロスセンタービル(旧東邦生命ビル)の敷地を通っていた。そこに尾崎豊のモニュメントがあって、その下でいつも同じ男の人がギターを持って尾崎豊の歌を歌っていた。その人はお世辞にも上手とは言えなかった。それで、どんな歌なのか聴いてみようとアルバム「十七歳の地図」を買った。それ以来、尾崎豊ファンです。早熟な天才だと思っています。
公開された50冊のノート
「NOTES」は尾崎豊が亡くなってから20年後の2012年に出版されました。尾崎豊が16歳(1981年)から26歳(1992年)まで10年間綴られた50冊数冊のノートが収録されています。
カリスマ、天才と呼ばれていた少年が、いかに自分の内面を見つめ、それを表現する言葉を捜していたかが、わかります。そして、10代の頃の内観の歌から脱皮しようとしていた苦悩も見えます。普通のミュージシャンだったら死ぬこともなかったでしょう。ノートの絶筆は1992年12月13日の「僕を知らない僕」でした。
絶望的青春から始まっている
「絶望的青春」が最初のノートの書き出しでした。書いたのは16歳頃でしょう。太宰治の「晩年」と重ね合わせてしまいました。
「絶望的青春」
正直に生きたい。そう思う。だけどこの世の中、やりたいことだけやって生きてゆくことはどうも出来ないようだ。
ぼくの心には夢を見て夢を追いかけても しょせん夢は夢でしかなく 夢にやぶれ挫折してゆく不安がいつもある。そしてぼくはどうすればこの世の中で現実に夢をつかむことが出来るのか、思いをめぐらしてみるんだ。学歴がまずひとつある。この世の中どんな場合でも学歴で人を見る。「何々大学を卒業しました」と「中卒です」では、誰もが 中卒にあわれみや同情を 少なからずでももってしまうだろう。ぼくは そんな世の中の固定概念がなくなればいいと思う。そうすれば、もっと自由に生きられる気がする。「右に向け」といわれれば、向かないものものばかりが目立ち、いつも血祭りにあげられてしまう。夢を追うにしても時期がある。 中卒で夢を追うには あまりにも門はせますぎる。———-
ノートの多くは詩的書かれ、創作のプロセスが見えます。
マリー 15のころから ディスコ通い
マリー 授業のあいまに 楽しそうに踊ってた
最後のパーティーのためのDanceを
マリー みんなに教えていたとき
だれもが夢中になって踊っていたけど
おまえはふと踊り抜け 泣いていた
高校にいかないあたいが
たったひとりきり
とりのこされたみたいにつらいってね
マリー おれの気持ち届けよ
そんなおまえが好きだった
マリー いまどうしているの
今じゃ あのステップは踊れない ーーーー
『NOTES』は大事にしている一冊です。この歳になって、少年時代の反抗、恋、絶望、挫折の言葉に血が熱くなります。