6月15日、紫陽花をめあてに北鎌倉です。最近はウィークデーだからといって、空いていることを期待してはいけない。案の定、北鎌倉駅で降りると明月院(紫陽花寺)に向う人たちでホームに列ができている。
明月院に行く前に東慶寺に入る。東慶寺の紫陽花は、紫陽花で埋めつくされた明月院とは違う趣がある。自然体で、かざらない美しさがある。
駆け込み寺と天秀尼
東慶寺は駆け込み寺でした。たかが尼寺、そんなところに駆け込んでも力づくで、と思いがちですが、大名も手が出せない力のあるお寺でした。東慶寺を開いたのが北条時宗の未亡人で、もともと格式の高いお寺です。第二十世住持”天秀尼”の時代に東慶寺に大きな変化が起ります。それは天秀尼が徳川家康のひ孫で、東慶寺が徳川幕府から直接庇護を受けたからです。
徳川家康のひ孫? 天秀尼の血をさかのぼっていくと…おもしろい。
天秀尼は豊臣秀頼の側室との娘、奈阿姫です。秀頼の正室は千姫、千姫の父は2代将軍徳川秀忠ですから、家康の孫になります。秀頼と千姫の子供の国松は豊臣家を断絶するために首を切られました。千姫は奈阿姫を助けるために、自分の養女として東慶寺に出家させます。たしかに天秀尼は徳川家康のひ孫になります。
しかし血をたどると豊臣秀吉と淀君の孫でもあります。さらに淀君の血をたどると、浅井長政とお市の方、織田家とつながります。
それでは千姫と養女の天秀尼はまったく血のつながりはないのか、あるようです。千姫の母は江は、浅井三姉妹の一人で淀君の妹です。秀頼と千姫は従妹同士だったんですね。
千姫と秀頼は兄妹ように仲が良かったそうです。その思いを天秀尼のいう名前に残したのでしょうか。また徳川家康は7歳で秀頼と政略結婚させるために大阪におくった孫の千姫に大きな負い目があったのでしょう。
そんな歴史がある、いまの東慶寺の紫陽花です。