ランゲルハンス島の午後:村上春樹、安西水丸
『ランゲルハンス島の午後』は、1984年6月の「CLASSY」の創刊から2年間、村上春樹と安西水丸が連載したエッセイをまとめたものです。1984年、村上春樹は35歳で、ちょうど「ノルウェイの森」を書いていた頃ではないでしょうか。それに1984年は『1Q84』でもある。
私の本棚で他の本にはさまれて、やっとタイトルが読めるほど薄い100頁ほどの文庫本で、時々気がついたとき引っ張り出して挿絵のイラストを眺めている。カラフルなイラストを見ていると、捨てきれず押入れの奥にしまっておいた宝箱を開いているような気分になる。
まえがきで、村上春樹は、”実際の話、僕は誰かに手紙を書くみたいに、ここに収められた文章を書いた。いつも頭にふと浮かんだことを浮かんだままにすぐするすら書き、それをそのまま封筒に入れて水丸さんのところに送って、絵をつけてもらった。水丸さんに絵をつけてもらった僕の文章はかなり幸せな文章である。”と言っている。
文庫本見開き一頁、1000字くらいで書かれたエッセイ集です。村上春樹は奇人ではないので、私たちが日常目にすること体験するようなことを書いている。たしかに手紙を書くように書いたかもしれません。しかし、そこは村上春樹流の「承」があって「転」がある物語になっている。
私が驚いたエッセイ
洗面所の悪夢
個人的に、えっと思ったエッセイがあった。エッセイのタイトルは「洗面所の悪夢」です。一部引用します。
今でも… というか、前にも増して——-僕はよく「放心」状態におちいることがる。———一人きりになったりすると何分か意識がまったくの空白状態におちいってしまう。とくにひどいのが風呂・洗面所で、何か具合がおかしいなと思ったらヘア・ブラシに歯磨きをつけて歯をみがいていた、なんていうのは日常茶飯事で、———。
それから意味のない物を無意識にじっと凝視するということがある。ふと我に返って「あれ、なんでこんなものをじっと見ていたのだろう?」と不思議に思うのだが、見ているときは全く意識がない。以前地下鉄の駅でシェイプ・パンツが何かのポスターをじっと何分もみつめていたことがあって、この時はさすがに恥ずかしかった。ーーーー
私も気がつくと、立ち止まってポスターなどを意味なく凝視していることがある。脳のどこかがおかしくなっていると思っていた。”なんだ村上春樹と同じだ!”と、ほっとしている。歳とったせいか、最近は前ほどではなくなった。それが良いことかどうかはわからない。村上春樹はどうなっているのだろうか。治ってない気がする。
思い当たることがある人は他にもいるはずです。安心して下さい。村上春樹と同じです。
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