今日、東京に帰る。新幹線の時間にはまだ2時間あるがホテルをチェックアウトした。秋田駅前の商店街を歩きたかった。歩道は除雪されていたがもう雪が数センチ積もっている。冬は雪遊びしかなかった北国生まれの私は雪道で滑って転ばない自信があった。しかし、つい1週間前、犬の散歩中に雨で表面だけがゆるくなっている公園で滑って転んでしまった。老いて反射神経がにぶっている。経験から薄らと積もった雪があぶない。下は固い氷のようである。ソロソロ歩きは止めて喫茶店に入った。
クラシックで文学的な雰囲気がある秋田の喫茶店
入口で靴とコートの雪を払いドアを押した。なかは奥が深く、左側に長いカウンター席があり、右側にテーブル席、それに仕切られた奥には大きな楕円のテーブル席があった。カウターの中にはサイフォンがいくつかあり、壁には良さそうなコーヒーカップがきれいに並べられていた。私はカウンター前のテーブル席に座りモカを頼んだ。クラシックで文学的な雰囲気がある。何故ならテーブル席の壁の棚には文学全集が置かれていて、私の席の後ろには室生犀星の全集が並んでいた。
太宰治の『ろまん灯籠』を読んでいる女(ひと)
入口近くの席で女性が本を読んでいる。お客は二人だけのようだ。しばらくして、もう一度女性を見るとさっきと同じ姿勢で本を読んでいる。小学生が教室で教科書を朗読するように両手で本をかざすように持ち上げて読んでいる。よほど面白い本を読んでいるようで微動だにしない。目元しか見えないが20代で美人の気配がする。コーヒーを飲むときにマスクを外すだろうと期待してちらちら目をやったがマスクを外すことはなかった。
新幹線は角館を過ぎ田沢湖の近くを走っている。窓からスマホで数枚写真を撮った。
iPadでKindleを開いた。「ところで喫茶店の女性は夢中で何を読んでいたのだろう?」と思った。喫茶店内で撮った数枚の写真から彼女の手元を拡大した。太宰治の『ろまん灯籠』」だった。読んだことがある。私も入り込んでしまった。
太宰治の『ろまん灯籠』
冒頭を引用すると;
八年まえに亡くなった、あの有名な洋画の大家、入江新之助氏の遺家族は皆すこし変っているようである。いや、変調子というのではなく、案外そのような暮しかたのほうが正しいので、かえって私ども一般の家庭のほうこそ変調子になっているのかも知れないが、とにかく、入江の家の空気は、普通の家のそれとは少し違っているようである。—-
時代背景からも上流家庭で、母、五人兄妹、祖父母、そしてお手伝い、それぞれが変わった個性を持った9人の大家族だった。各自、好みこそ違え、文芸の趣味を持っている。
そして兄妹5人には退屈な時にする遊戯があった。ひとりが思いつくままに勝手な人物を登場させて物語を原稿用紙に書き、それから原稿用紙を兄妹順々に廻し、その人物の運命を捏造していった物語の続きを書き加えて、合作の「小説」に仕上げるという高等な文芸遊戯です。
兄妹を簡単に説明すると、
長男は二十九歳、法学士で、少し尊大ぶる悪癖があるけれども、本当は弱く、とても優しい。
長女は二十六歳で鉄道省に勤務していてフランス語が堪能、背が高くロイド眼鏡をかけていてる。誰とでも友達になり、一生懸命奉仕して捨てられる。それが趣味である。
次男は二十四歳、おどろくほど美しい顔をしていたが、俗物で、東大医学に在籍するが、あまり学校には行っていない。体が弱いのである。
次女は二十一歳でかなりのナルシッサスで、深夜鏡に自分の裸体を見て、にっと可愛く微笑んだりしている。
末弟は十八歳で、今年、一高の理科甲類に入学した。高等学校に入ってから急に大人ぶり家族いから失笑されている。
この小説の面白さは、それぞれの兄妹が捏造した物語の展開です。物語は先陣を志願した末弟が作った「おそろしい魔法使いの婆さんと美しい娘が住んでいる森の奥の家に、狩をしていたその国の王子が迷い込んできますーー」から物語が始まります。末弟の一話で完結しったような物語が、次の兄妹毎に思わぬ方向に展開していきます。
喫茶店で読んでいた彼女も、この展開にはまってしまっていたようです。
『人間失格』などとは極が異なる太宰治の作品です。キンドル、青空文庫で無料で読めますよ。