檀一雄の『太宰と安吾』を読んで

『太宰と安吾』:檀一雄

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面白い!

この本は2003年に刊行された単行本を文庫本にして今年の1月に出版されました。私は初めて読みました。

太宰治と坂口安吾より長く生きた檀一雄が、多くの編集者から二人についての執筆を依頼されたようです。この本は文芸雑誌、新聞、小説のあとがきなどに書いたエッセイをまとめたものです。第一部が太宰治、第二部が坂口安吾です。坂口安吾については、『桜の森の満開の下』しか読んだことがないので、青空文庫で何冊か読んだ後に読み直そうと思っている。

太宰治と檀一雄は、太宰治の作品で言えば「思い出」から「姥捨」の暗鬱な作品が多い時期に、泥沼から足が抜け出せないような交遊関係にあった。このエッセイを読むと、太宰治の作品の行間にあるものが見えてくる。太宰治の苦悩、憂鬱、甘え、笑顔、機知、ユーモア、そして才能を愛情に満ちた表現で描いている。そして、エピソードにはその時代を駆け抜けた多くの文筆家が登場し、親密な交遊と互助関係があったことがわかる。それに、なによりも檀一雄を知ることができる。

太宰治

29編のエッセイが収録されています。一部を引用紹介します。

太宰の全貌は作品のなかにある

もう太宰のことは沢山書いた。おそらくは太宰は地下で眉をひそめているだあろうほどだ。残念なことに、私が書けば書くほど太宰の肉感は、私から遠ざかってゆくような気さえする。
そんな時はあわてて太宰の作品をひもといてみるならわしだが、作品に接すると、紛れもないあの太宰の全貌が、実にたしかに、実にやすやすと眼の辺りに浮かび上がってくるから不思議である。
いや、不思議でもなんでもない。生得の作家というものは必ずそうでならなければならぬものだろう。
ーーー
その幻想をなつかしんでいるのは私ばかりで、もはや実の太宰はハッキリと作品のなかに生きているのである。ーーー太宰に会いたいものは太宰の作品を読むがよい。ーーー

出典:太宰時間(アワー)昭和29年5月「昭和文学全集」(角川版)

私が太宰治を始めて読んだのは高校生の頃で『斜陽』だったと思う。当時の私にはおそろしく退屈な小説で、ただ字面を追って読み終えた。それが処女作の「思い出」から時系列に読み始めると太宰治が見えてくる。そして今では何度も再読するほど好きになっている。

太宰治と檀一雄

盟友だった壇一雄が語る太宰治には表情と質感がある。

檀一雄が21歳のとき、文芸評論家の古谷綱武と交遊が深まり、二人で雑誌を出そうとする。小説を誰かに頼むかということになって、古谷綱武が推したは何人かの新人作家の作品をていねいに読んだ。私はそれらの作品を持ち帰って、ていねいに読みすすんだ、

「海豹」という同人誌にのっていた太宰治の「思い出」と「魚服記」を一読して、その文体をささえとめているあやうく甘美な禀質を稀有のものだと感服した。

出典:「出世作のころ」昭和43年3月「読売新聞」夕刊

そして檀一雄は太宰治に会った。そして鬱屈した交遊が始まる。

ーーー不吉な東大生太宰治にめぐり会って、昭和八年から昭和十二年までの暗鬱な、狂気じみた毎日になる。
私たちのゆくところといったら玉の井や、新宿の娼婦のもとであった。酒を浴びるほど飲んで、
走れよ トロイカ 吹雪にをついて走れよ
などどと歌っていた。太宰治の音階の狂った声をいまでもはっきり覚えている。
———昭和十一年の二月二十五日の夜、私は太宰治と船橋の太宰治の家にいた、おそらく『晩年』出版の打ち合わせで、夜明けまで太宰とのも、気がついてみると、家の周囲は白く雪が降り積んでいた。おりから二・二六の速報がラジオで伝えられ、とうとうその夜も東京に帰れずじまいだった。
まもなく、太宰治の細君がカン通事件を起こし、太宰の懊悩苦悶の表情が手にとるようであった。太宰はよくあの時期に耐えたものである。
——–昭和十二年の七月、私は日華事変第一次の動員に召集された。私の生涯であのときほどほっとしたことはない。太宰と私の生活は、まったくの話、荒廃にひんしていた。

出典:「或る時期」昭和四十年二月二十二年「愛媛新聞」

熱海事件と 「走れメロス」


享楽依存症のような二人の有名な熱海事件である。熱海の旅館で人質になった本人が書いているのであるからリアルで、お笑いのネタように面白い。

私は後日、「走れメロス」という太宰の傑れた作品を読んで、おそらく私達の熱海行きが、少なくともその重要な心情の発端になってはしないかと考えた。あれを読む度に、文学に掲わるはしくれの身の幸福を思うわけである。憤怒も、悔恨も、汚辱も清められ、軟らかい香気がふんわりと私の醜い心の周辺を被覆するならわしだ。
「待つ身がついらかね。待たせる身が辛いかね」と、太宰の声が、低く私の耳にいつまでも響いてくる。

出典:「熱海行」昭和二十四年八月「太宰治研究」奥野建雄編

太宰治の死


太宰治の死の原因ついて、作品を読み進めば、壇一雄の 情死なんかではないと言っていることに、納得できると思います。

太宰の死は、四十年の歳月を永きに亘って、企画され、仮構され、誘導されていった彼の生、つまる処彼の文芸が、終局において彼を招くものであった。太宰の完遂しなけらばならない文芸が、太宰の身を喰うたのである。
ただ、人々は、文芸のために死を選ぶということを、咄嗟に肯定しながら、おのれの市井風の身上に紛れ考えて、その断定をためらった。
——-井伏鱒二氏の庇護なくば、太宰の死はおそらく十年昔に訪れていたに違いない。この庇護による延長の途上『富嶽百景』等の一連の不思議な開花を見せている。——

出典:「文芸の完遂」昭和十一年四月号「文芸雑誌」

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