『新樹の言葉』:太宰治
太宰治の短編小説です。1939年の作品で、甲府が舞台になっています。この頃に書かれた小説は、富嶽百景など、穏やかで、キラッとする小説が多いようです。甲府の太田美知子と結婚して、新たにスタートラインに立ったような気持ちだったんでしょうか。
青空文庫でも読みます。
私のあらすじ
ある日、甲府で、郵便屋に呼びかけられた。郵便屋は、あなたは青木大蔵さんですね、内藤幸吉さん知っていますね、あなたは津軽の生まれですね、あなたは幸吉さんのお兄さんです、すぐに幸吉さんに知らせてあげますからねと、はしゃぐように言った。
馬鹿げた話である。内藤幸吉なんて知らない。不愉快になってきた。いろいろな恐怖を避けて、甲府へこっそりやって来て、やや落ちついて仕事をすすめていたのに、この、おもわぬ出来事のために、私の生涯が、またまた、どん底に落ちるのではないかと, 不安になった.
その夜宿に、ひとりの男がたずねて来た。
「おつるの子です。お忘れでしょうか。母はあなたの乳母をしていました。」と言われて飛びあがりたいほど激動を受ける。「そうか。そうか。そうですか。」と、私はみっともないと思われるほど、大歓喜する。
甲府の宿のたずねて来てくれたのは、幼少の頃の乳母だったおつるの息子だった。つるは、私を頑強に支持し、いろいろな本を読んできかせ、片時も私をはなさなかった。私はつるが本当の母だと思っていた。ある夜つるがいなくなった。つるは甲州の甲斐絹問屋の番頭に嫁ぎ、その10年後に死んだことを聞かされた。つるの死に別段泣きはしなかった。しかし、つるの姿は純粋に思い出の中に完成され固定されていた。そんなときに、予想だにしなかった、おつるの息子、それに4歳下の妹に会ったことの、感激が描かれている。
幸吉は、たかそうな古風な料亭に案内する。その料亭は、両親が生きていた頃の幸吉の家、甲斐絹問屋だった。座敷の私が座った場所が、乳母のつるが座って針仕事をしてた場所だったと言われた。とても、のんびり落ち着いて幸吉と語れず、酒をがぶがぶ飲み、
それから何を言ったか、どんなことをしたか、ほとんど覚えていない。覚えていたことは、少女の声であった。
「そんなことない。」無邪気な少女の、懸命な声である。「私たち、うれしのよ。しっかり、やって下さい、ね。あんまり、お酒を飲んじゃいけない。」きつい語調が、乳母のつるの語調にそっくりだったので、私は薄目をあけて枕もとの少女をそっと見上げた。きちんと座っていた。私の顔をじっと見ていたので、私の酔眼と、ちらっと視線が合って、少女は、微笑した。夢のように美しかった。
次の日、宿に幸吉の妹から百合の花が届いた。私は、机に座って、いい弟と小さい妹のために、いい仕事をしなければいけないと思った。あいつらの為にだけでも、も少しどうにか、偉くなりたいものだと思った。
それから二日目に、甲府で火事があった。幸吉たちの家だった先夜の料亭を思いだし、表に飛び出した。城跡の高い台にやっと登って、見ると、真下に、火事が音をたてて燃えていた。肩をたたかれ振りむくと、幸吉兄妹が微笑して立っている。「あ、焼けたね。」私は、舌がもつれて、はっきり、うまく言えなかった。「ええ、焼ける家だったんですね」並んで立っている幸吉兄妹の姿は、凛と美しかった。微笑した。たしかに単純に、「微笑」であった。つくづく私は、この十年来、感傷に焼けただれてしまっている私自身の腹綿の愚かさを、恥ずかしく思った。叡知を忘れた私の今日までの盲目の激情を、醜悪にさえ感じた。
君たちは、幸せだ。大勝利だ。そうして、もっと幸せになれる。私は大きく腕組みして、それでも、やはりぶるぶる震えながら、こっそり力こぶをいれていたのである。
この物語が、事実かどうかはわかりません。ただ、太宰治の小説「思い出」に、乳母のことを書いています。
母に対しても私は親しめなかった。乳母の乳で育って叔母の懐で大きくなった私は、小学校の二三年のときまで母を知らなかったのである。——-母への追憶はわびしいものが多い。
六つ七つになると思い出もはっきりしている。私がたけという女中から本を読むことを教えられ二人で様々な本を読み合った。たけは私の教育に夢中だった。私が病身だったので、寝ながらたくさんの本を読んだ.
この『新樹の言葉』の、「だけど、いいねえ。乳兄弟って、いいものだね。血のつながりというものは少し濃すぎて、べとついてかなわないところがあるけど、乳兄弟ってのは、乳のつながりだ。爽やかでいいね。ああきょうはよかった。」が、太宰治の本音でしょう。
文学小説は速読しませんが…
私は文学小説は速読はしません。それでも普通の人の2〜3倍の速さでしょう。再読するときは、自然に速読になります。再読で気づくことが多くあります。
家族で速読を修得できます。日本とアメリカに速読を普及させた、速読法のパイオニア